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叫びと祈り

――旅人は、物語を伝えることができる――

■収録作品
「砂漠を走る船の道」
「白い巨人(ギガンテ・ブランコ)」
「凍れるルーシー」
「叫び」
「祈り」

 

「砂漠を走る船の道」舞台:マリ

――初めて足を踏み入れる人に見抜かれるほど、砂漠は甘くないよ――

 

Impression

・事件の真相も面白かったのですが、集団内の崩壊を防ぐために斉木が考えた解決も面白いです。むしろ、初めの解決があったからこそ、真相のインパクトが強くなったかのように思われます。また真相の伏線模索中ではしっかりと張っており、叙述トリックが無くても二度読みする面白さがあります。砂漠をクローズドサークルに仕立て上げるという発想も素敵です。

・よく言われるのは「ミステリ事態と関係ない叙述トリックは使うな」という批判です。僕自身も読者をだますようなアンフェアな叙述トリックは好きではないのですが、この短編においては不思議とすんなりと自身の中で落ちたのです。ミステリ事態には絡んでいなくとも、犯人からの脱出に利用するのは巧いと思います。

・最後のシーンで梓崎はラクダに対してこのような描写をしている

 

恐れることなく。

恐れることなく。

そう。砂漠の船ではない。砂漠のイルカなのだ。

 

この「恐れること無く」を二度繰り返すことのあざとさ!! この繰り返しにより、ラストのカタルシスは倍増です。

 

Raising a Question

・長はなぜシムーンで死んだのだろうか? 砂漠にかけては海千山千の長がシムーンに遭遇した時の対処法を知らないはずがない。『「――安心したまえ、まだ引退はせんよ」顔を覆う布は、鼻より下を隠している。』(P.22 L.12) なぜ、布で顔を覆っていたのにもかかわらず、長はシムーンにやられたのだろうか?

・ちなみに、シムーンは、6月中旬から8月中旬の間に発生することが多く、その温度は50℃を超えることもある。作中でも書かれている通り、うつ伏せになり口を閉じなければすぐに窒息死する。古代ギリシアの歴史学者ヘロドトスは自身の著作の中でシムーンを「サハラ砂漠を超えて吹く赤い風」と記している。

 

「白い巨人」舞台:スペイン

――やっぱり旅に出たら、時計は外さないといけません――

 

Impression

レエンクエントロ(reencuentro)はスペイン語では再会という意味。おそらく町の名前は架空の名前だと思います。スペイン語に聡い人ならどんな結末かが予想できますね。

・人物消失のトリックは……「これは気づかないわけないでしょ!」「なんてトリックだ💢」「拍子抜けだ」と怒る方もいるかもしれません。でも斉木はちゃんと言ってるんですよ

結局フェイクなんだ

この兵士パズルについての斉木の言及は実は、

兵士パズル(虚構)

アヤコ消失(現実)

の両方を示していたのです。僕はこの虚構への言及が、現実への伏線となっていたと解釈しました。そう思うとこの話、すごいと思いませんか?

・先の「砂漠を走る船の道」に続き、またもや叙述トリックです。「ヨースケは「セレッソ」のところに妙に強いアクセントを置いた」(P.92 l.9)


「凍れるルーシー」ロシア

――聖人であることと、聖人と呼ばれることは違うのです。聖人という肩書などなくとも、人は聖人たり得るのですよ――

 

Impression

結末はカーの『火刑法廷』を連想させられます。

・舞台設定を本当によく生かした作品で、ホワイダニットの伏線回収も見事。

・特に、腐らない死体を用意するために生ける聖人を殺したという斉木の推理も驚愕だが、ラストにはさらにその上をいくオチが用意されており、『叫びと祈り』の中に納められた作品の中で最も騙される快感の大きかった一遍。

・視点が切り替わる際、文章と文章の合間にキリル文字の「Я」と「OH」が書かれている。それぞれЯはya、OHはonに対応する。「Я」「ОН」「МИР」(「私」「他人」「世界」)これはまるで次の「叫び」へのバトンを渡しているようです。


「叫び」ブラジル

――コンコンと自分の頭を叩いた。「必要なものは、ここに詰め込んでおけばいい」――

 

Impression

・前作とは異なり、大きなひねりの無いオーソドックスなミステリ。ただし、今回も「凍れるルーシー」と同じように「狂人の論理」に近いものが見受けられ、キリル文字は暗に「叫び」の世界を仄めかしていたのかもしれない。また、「砂漠を走る船の道」と同じくクローズド・サークルにおける連続殺人であり、ところどころに類似点がある。しかし、この作品では叙述トリックは使われてはいない。

・感染症に侵され死ぬことがはっきりわかっている者を殺害するのはなぜか? という謎もこれまた魅力的である。さらに、被害者だけでなく、犯人もまた死を目前にしていたというのが面白い。

 

「祈り」日本?

――同じ景色でもさ、見る者によって、見え方は変わってくるのさ――

 

Imprssion

この話は、ミステリ作品としては不要かもしれないが、主人公である斉木に「救い」を与える役割を担っている。 この作品においても叙述トリックが用いられているが、作者としてもこれは見抜かれる前提の上で、「斉木はなぜこのような状況に陥ったのか」という新しい謎を突きつけるための叙述トリックだと考えられる。

・ 同じ風景でも、見る者によって見え方は異なる。ゴア・ドアはどういう場所か? どういう答えを導くかで、その人の中身が分かる。同じ人でもゴア・ドアの意味は変化宇する。 ゴア・ドアという救いようのない牢獄から、ゴア・ドアという祈りの洞窟へと向かう。主人公の「救い」を描いた一遍。果たして、この短編が不要とみるか、必要とみるか。同じ一話でもどう見るかで、あなたの読み方が分かる。

 

総括

 ホワイダニットを扱った短編集で、バラバラな4編を最後の1篇でまとめるといった構成をとる連作短編集である。世界各地を舞台にした短編はどれも、その土地独特な社会的価値観や風習、常識が重要なポイントとなり、カタルシスを生み出している。その動機はどれも既成のミステリとは一線をかすものばかり。情景描写と心情描写も丁寧で、読者を宅に身物語へと引き込む。これらの作品を通して感じるのは、「梓崎は短編作家である」ということ。そして、間違いなく力のある作家であるということである。兼業作家ゆえその作品数は多くはないが、是非これからも書き続けてほしい。

 

追い詰められた時、人はどうするだろうか?

望みがあるとき、人はどうするだろうか?

答えは、簡単である。

叫び、そして祈る

道標を残すため、恋人と決別をつけるため、信仰のため、名誉のため。
守るため、成し遂げるため、隠すため、逃れるため、欺くため、生きるため。
それが決して届かないものだとわかっていても、人は、徹底的にもがき、あがき、努力することで叫び、だひたすらに叫んだあとで祈るのである。

 

配置について

『叫びと祈り』に収められている短編は、その一つ一つの出来もさることながら、配置も絶妙である。
「砂漠を走る船の道」「白い巨人」……謎を解決
「凍れるルーシー」「叫び」……謎の解決には至らず
物語が進むにすれ、斉木の推理がどんどん的外れな方向へ進むのです。特に「叫び」では全くの見当違いな推理をしでかします。そこへきての「祈り」。なんてずるい構成でしょうか!!

 

Story

「砂漠を走る船の道」

・トンブクトゥ近辺のサハラ砂漠。そこに一隊のキャラバンがいた。道標も自生する植物もないような砂漠の中、彼らは塩を運んでいた。斉木がそのキャラバンに加わったのは、仕事のためだった。海外の動向を分析する雑誌を発行する会社に勤める斉木は、サハラ砂漠の塩の道の取材のため、アフリカに来ていた。交易路として長い歴史を誇る道をキャラバンとともに斉木は歩む。
・サハラ砂漠の中には塩を採掘する集落がある。海塩よりも高く――30kgあたり5ドルで――取引される塩を街へ運ぶことが砂漠の民の生業であった。一切の道標を持たない砂漠は、ラクダの歩く道によりその命脈が保たれている。そのため、砂漠に生きる民はラクダを「砂漠の船」と呼んだ。砂漠にはラクダの足跡が残る。すぐに消えてしまうかもしれないが、往路で付けた足跡は帰路に役立つ可能性があるのだ。足跡なしで塩の道を知るのは長だけであった。
・キャラバンの中、唯一メチャボだけが子供だった。メチャボはキャラバンの長にしか懐かず、長だけを信頼していた。
・砂漠にはところどころ骨が落ちている。ラクダの骨、人間の骨。砂は時に冷酷で、油断したものを呑み込んでいく。砂漠の民は強い信頼で結ばれているが、信頼に甘えることは決してなく、油断せず、己のことは自分自身で責任を持つからこそ強い信頼関係が築ける。油断と信頼。これは、広大な砂漠の生みの中で最も重要な言葉であった。
・何とかして一隊は塩を採掘する集落へとたどり着く。キャラバンの一行が集落についたときの宴の描写はとても綺麗。梓崎優はこういった描写が得意な作家である。
・長が斉木に言う「命を賭けるという決意が無ければ、砂漠を縦断することなどできまい」斉木は長に聞く「砂漠の縦断が、長にとってつらくなることは無いのですか?」それに対して長は答える「ここだけの話、かなり堪えているよ」強い発言が返ってくると思っていた斉木にとって長の弱気な発言は意外であった。「老体には、砂の旅路は重すぎる」
・砂の海は唐突に牙をむいた。砂嵐。砂漠の民たちが「毒の風」と呼ぶ熱風が一隊を襲った。幸いにして毒の風は直撃ではなく一隊を掠めただけだったが、この事故によりキャラバンの一隊は長を失ってしまう。
・一行はナイフを長の胸に突き立てその場を後にした。それは彼らなりの弔いであった。「砂漠に生きるものは砂漠に還るべきだ」その思いから、強さと覚悟の証であるナイフを突き刺した。それが、ナイフに誓える誇りの持ち主であったことを砂漠に示す弔いの方法だった。
・事件は、長の亡くなった次の夜に起こった。キャラバンのメンバーの一人が胸にナイフを突き立てて死んでいた。一体なぜ、
砂漠の真ん中で殺人が起こったのか? もし怨恨による殺人であれば、町についてから殺してもよいはずである。砂漠の真ん中で殺せばキャラバンのメンバーが減るため生存へのリスクも上がれば、自身の罪を指摘されるリスクも上がる。そこには、砂漠に生きるものにしか分からない異郷の地だからこその動機があった。
・長の死とは違い、明らかに人為が介入する仲間の死に、一隊は怯えはじめる。メチャボは子供で、取材目的の斉木は弱く、動機が無い。
犯人候補は二人だけ。この環境は一種のクローズドサークル、しかも広大な砂漠という完全に開かれたクローズドサークルである。皆が不審になる中、ただラクダだけが落ち着いていた。
・互いが犯人だろうと疑心暗鬼になるキャラバンのメンバー二人に対して斉木は「
事故と自殺のキマイラ」という解決案を出す。それは「殺された男は蠍か蛇か、何らかのものに襲われ死に瀕した。しかし、誇りを何よりも大切にする男は砂漠の民であることの誇りを示すため自らの胸にナイフを突き刺し絶命した」というもの。この案が真実か否かはわからないが、苛立った二人の争いは収まり、集団の崩壊は抑えられた。
・翌朝、斉木が起きると、砂漠の砂が風で舞っている。それを見たとき、斉木はすべての真相を見抜いた。一人の男が眠っていた。それは永遠に覚めることのない眠りだった。ここで、犯人と斉木は対峙する。

 

~以下ネタバレ~

 

・砂漠の中での殺人は罪を暴かれるというリスクが存在するが、そのリスクは犯人が皆殺しを想定していれば無効となる。では、殺害を行う動機は何か?
・きっかけはシムーンにより長が死んだことだった。この塩の道を知るものはラクダ以外には長しかいない。長が死んだことにより、二度とこの道を辿って塩を運ぶことはできない。もう一度この道を通るためには何かしら道標を残す必要があるが、道標となりうるものは砂漠には落ちていない。砂の他にあるものは塩、ラクダ、そして人間だけだった。砂漠の民にとって塩は生きるための術。それを道標にすることはできない。そしてラクダは塩を運ぶための術。これも道標にはできない。だが、人間は一人でもいれば塩を運ぶことができる。砂漠の民にとって最も優先度の低い人間を殺し、それを道標としようとした。犯人はそのためにキャラバン一隊を殺害した。それが砂漠の真ん中で殺人を行う理由であった。
・犯人が道標を作るため、斉木に襲いかかったその時、ラクダが犯人に体当たりした。体当たりしたラクダはメチャボ。メチャボは人間ではなくラクダであったという叙述トリックが用いられていた。ただし、この叙述トリックは物語のサスペンス性を高めるために使われているもので、ミステリと直接的な関連はない。この叙述トリックは色々と伏線が敷いてある。例えば「たった五人で砂の海に在るとは、どういうことなのだろう」(P.15 L.1)というのは斉木を含めた5人であり、メチャボは含まれていない。「野営地についたキャラバンが最初にやることは、ラクダを休ませることだった。といってもメチャボは野営地に着くや否やあっという間に水を探しに走って行ってしまったが」(P16 L.8)という文章でもメチャボがラクダであることを匂わせる。
・再び犯人が斉木を襲おうとする中、決して長以外に懐こうとしなかったメチャボは斉木の前に腰を下ろす。「――僕に、乗れと?」もしもメチャボがただ座っただけなら、乗ろうとしている間に殺されることは必然。そこで斉木は長の言葉を思い出す。「――お前が本当にメチャボのことを理解してやれば、あるいは信頼されるかもしれないがな」斉木はメチャボを信じ、彼に跨った。その途端メチャボは悠然と立ち上がり、砂の道を駆けだした。ふと足元を見ると、行路に通ったラクダの足跡がある。メチャボは足元も見ずに来た道を正確に辿って行った。
・真に砂の道を知り尽くしていたのは長だけではなかった。ふと後ろを振り向くと、他のラクダたちが斉木の後をついてくる。その中に、犯人の姿はなかった。斉木は悟る。彼らは船ではないと。人に操られなければ進むことのできない船ではなく、ラクダは自らの足で砂の海を進むイルカであったのだ。

 

 

「白い巨人」

 

スペイン

レエンクエントロ

300年の歴史を持つ風車

 

・八月。サクラは友人のユースケ、斉木の三人で中部スペイン、レエンクエントロの街に来ていた。三百年の伝統を持つ風車を観光名所とする場所。そして、サクラが恋人のアヤコと別れた場所でもあった。

・一年前。「ごめんなさい。あなたとはもう会えないのです」そうサクラに告げたアヤコは風車の中へ入っていった。しばらく呆然としたサクラが我に返り、風車の中に入ってアヤコを探したが、その中にアヤコはいなかった。

 

兵士パズル

ガジェット:人物消失

 

・三人は風車の丘の土産物屋の主人からある不思議な兵士の話を聞かされる。

・イスラム教徒とキリスト教徒が争っていたころ、満月の光る真夜中。セレッソというキリスト教側の兵士が、イスラム軍の軍事機密を盗み出し、レエンクエントロに逃げ込んだ。セレッソは疲労で限界だったが、すぐ後ろにはイスラム軍の追手が迫っていた。セレッソは風車の中に隠れるがイスラムの追手はそれを見逃さなかった。城壁から何番目の風車に隠れたのかを数え、仲間を呼び、丘に登った。仲間を伴い風車の中に入ったが、その中には誰もいなかった。その後、イスラム側の機密を手にしたキリスト軍は戦いに勝利した。こうして、イベリア半島からイスラム勢力は撤退した。

・三人はこの謎を解くゲームを行う。だが斉木は言う「ただ、あのパズルはフェイクなんだと思ってね。」

・サクラは思う。数百年前に風車の中で消えた兵士と、一年前に風車の中で消えたアヤコ。あまりにも似ている

 

サクラの回想

 

・サクラとアヤコの出会いは大学構内の掲示板前であった。二人は教室の位置を探しており、同じ授業であった。こうして二人は出会い、気が付くとカフェでの話し合いが日課となっていた。

・アヤコは言う「こうして会えるのも、夏までかもしれません」サクラはアヤコに旅行を提案した。ろくに計画も立てず夏日の照らす八月のスペインを回った。そして旅の最終日、二人はレエンクエントロを訪れた。

「やっぱり旅に出たら、時計は外さないといけません」

(中略)
――それに、終わりを少しでも気にしないように。

 

引用基:『毒入りチョコレート事件』(アントニー・バークリ―)

ガジェット:多重解決

 

・三人は各々の考えを持ち風車の謎に対する解答を示す。アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』を引用基とする、多重解決ものである。

・解答を提示する順番を決める際、ヨースケは「最後に意見を述べるやつが正しいのがルールだからな」(P.87 L.1) と言う。これだけでメタミステリだとするのは穿ち過ぎだろうか。

 

サクラの解答(以下ネタバレ)

 

・起こった事象は

1.兵士セレッソが風車に入る

2.イスラム兵士が突入する

3.イスラム兵士が中に誰もいないことを確認する

この三つの中、客観性を疑うことができるのは、最初のみ。二つ目と三つ目は複数人が確認しているからである。イスラム兵士は風車が城壁から何番目の風車に入ったのかを確認しているが、月が低い位置から照らしていたため、城壁の陰に隠れて風車が一基消えていたように見えたのである。

・サクラの意見に対し、ヨースケは異を唱える。城壁は風車の東側にあり、風車を隠すために月は東側になければならない。しかし、北半球にあるスペインでは満月は真夜中に南中する。イスラム兵士は南側にいたため、かえって風車がよく見えたはずである。

 

ヨースケの解答

 

・兵士セレッソは風車の羽に飛びつきイスラム兵が去るのを待っていた。

・この考えはサクラによって否定される。逃亡のため疲弊していた兵士に回っている風車につかまる体力は残っていないと考えらる。仮に風車が回っていなかったとすれば、帆布を外しているはずであり、イスラム兵が気が付かないはずがない。さらに、月が南側にあり、イオスラム兵は北へと向いていたため兵士を見つけるのは容易であったはずである。

 

斉木の解答

 

・イベリア半島からイスラム勢力が追い出されたということは、この戦いはレコンキスタ。八世紀に始まり、1492年に終わりを迎えた。しかし、この風車の伝統は三百年。この風車にまつわる伝説そのものが作り話ということになる。伝説を持つ風車の加護があれば勝てる。ナポレオン戦争において、兵士を鼓舞し、士気高揚させるためのげん担ぎとして造られたフィクションであった。

・斉木の解答を聞いてサクラは他の可能性はないだろうかと考える。そして、一つの解答に到達する。兵士セレッソは風車から出ていないのではないのか。疲労困憊した兵士は風車に避難する。しかし後ろからはイスラム軍の追手が迫っている。イスラム軍は風車に突入する。そして――セレッソは殺された。歴史とは勝者が創る物語だ。勝者であるキリスト軍は払った犠牲の多さを隠蔽したかった。そして物語を作った。兵士が消えたことで戦争の犠牲にならなかったことにするために。

 

サクラの解答 その2

 

・さらに、サクラは考える。もし伝説と同じことが一年前に起きていたらどうか。アヤコは中で殺されたのではないか? 風車の管理人は何らかの理由でアヤコを殺害し、下にサクラがいるため出られなかった管理人は屋根に上り、サクラが出ていくのを待った。

・サクラの考えを斉木は否定する。屋根の上に管理人がいたならサクラが気が付かないはずがない。そして、アヤコが生きている最大の証拠を斉木はサクラに提示する。それは、アヤコそのものだった。

 

アヤコの登場

叙述トリック

 

・アヤコが目の前に現れサクラは狼狽する。

・アヤコはサクラを探しており、留学経験のある斉木にと出会う。斉木とサクラが知り合いだと知ったアヤコはサクラと会うためレエンクエントロへとやってきた。

・サクラはマドリッド在住のスペイン人であった。本名はフアン・セレッソ・フェルナンデス。cerezo(セレッソ)はスペイン語で桜を表すため、サクラというあだ名をつけられていた。「ヨースケは、「セレッソ」の所に妙に強いアクセントを置いた」(P.92 L.9) という記述があり、なぜこのようのことをしたのかというと、物語の兵士の名前とサクラの本名が同じことをかけてサクラをいじっていたのだ。

・アヤコはマドリッド大学に短期留学していて、留学期間が終わったため日本へ帰っていった。アヤコは日本の大学を卒業し、再びセレッソに会うため留学生サークルOBの斉木と知り合い、斉木が二人が出会えるように取り計らっていた。

 

アヤコ消失の真実

 

・消失の当日、アヤコは白い長袖に白いスカート、白い帽子という白づくめの格好をしていた。風は強く、サクラはアヤコに別れを告げられたため泣いていた。風車の壁の色は白かった。

・アヤコは普通に風車から出て行っただけだった。彼女の服装が風車の壁と同じだったために同化し強風のためドアの開閉音が聞こえず、号泣していたサクラの目にはアヤコは見えなかったのである。

 

「凍れるルーシー」

十月のロシア南部

列聖

 

・斉木はロシア正教会の修道士ウラディーミルと共に、南ロシアの修道院を訪れる。それは、修道女リザヴェータの遺体が二百五十年の時を経てもなお、腐敗していないため彼女の列聖を修道院が求めたからである。列聖とは、信仰心の熱い教徒を聖人として認定することである。ウラディーミルは聖人認定の調査のため、斉木はその取材のため修道院を訪ねた。

 

復活

 

・ロシア正教の最も根本的なことは復活。復活して神の国へ行くことが最も重要であり、復活を求めるために祈る。普及体は復活の象徴とされるため、修道院はリザヴェータの列聖を求めるのである。

・遺骸が腐敗しないことは、稀なことだが、奇跡ではない。奇跡なのは腐敗しないことではなく、敬虔な教徒にその稀な現象が起こったことであるとウラディーミルは言う。

・ウラディーミルが修道院を訪れるのは、ただ単に普及体が本物か否かを確かめるためだけではなく、聖人と唄われるリザヴェータに祈りをささげるという単純な目的のためでもあった。

 

聖人=リザヴェータ

 

・修道院の中でも特にリザヴェータの聖性を信じていたのはスコーニャという修道女。彼女は列聖を誰よりも強く望んでいたが、同時にもしも列聖が認められなかったらと不安でもあった。そんな彼女は「生きる聖人」ともいわれる修道院長に尋ねる。「聖人とはなんですか」それに対して修道院長はこう答えた。「それは、リザヴェータ様のような方のことです」

・スコーニャはウラディーミルが来る当日。朝から祈りの間にて祈り続けた。

・ウラディーミルと斉木は修道院に入り、修道院長の案内を受ける。修道院長は修道院において一日の始まりは日の入りであり、日の入りから日の入りまでが一日となることを説明する。

・斉木達は祈りの間へと案内され、その部屋の中の黒い棺の中には、黒いヴェールを被った人間が一人、目を閉じて横たわっていた。

 

スコーニャの視点

 

・ここから再び、スコーニャの視点で物語が進行する。スコーニャは斉木達が祈りの間に入ってくる際、リザヴェータニ祈りを捧げていた。

・斉木達は棺の中を見、生前と何ら変わりのないその姿に驚く。修道院長に防腐処置をしたか否か聞くと施していないと答える。その後、修道院長はリザヴェータの聖性について説明する。

・ここで、ウラディーミルは修道院長に、三日間一人で祈りの間に籠りたいと願い出る。

・ここで修道院長に電話がかかる。電話は世話になっている診療所の先生からで、明日麓に向かうと言う。留守を預ける形で、ウラディーミルは祈りの間に籠ることを許される。

 

ソ連としての過去

 

・斉木はこれほど綺麗な不朽体があるにもかかわらず、なぜいままで列聖を求めなかったのかを考える。修道女は斉木にその原因は歴史的背景があったことを説明する。過去ソ連は無宗教国家で、国が信じていたのは神ではなくマルクス主義。ソ連にとって宗教は害悪であり、それ以上のものではなかったと説明する。

・修道女はリザヴェータへの信仰が最も厚いのはスコーニャだと言い、スコーニャ本人は麓の村に用事があり、明日には戻ってくると言う。

 

列聖の理由

 

・夜、斉木は修道院長と話す。修道院長は斉木に聖人とは、霧の中の蝋燭だという。人とは迷いやすいもの。だから蝋燭の明かりの力を借りて、どうにか神の国にたどり着こうと祈る。斉木は「我々の祈りは復活への希求」というウラディーミルの言葉を思い出す。「本当は、列聖に意味などないのです。けれど、蝋燭であることを明確に教えてあげたほうが人は安心するのも事実」であり、聖人と呼ばれることには何の意味もなく、聖人であることが大切なのだと斉木に説く。

・修道院長は去り、猫が鳴いた。

 

修道院の猫

 

・翌日、祈りの間で斉木は3日間の別れを、ウラデイーミルに告げる。斉木は修道女と話す。修道女は祈りの間と制度を結ぶ通路には猫が住んでいるが、全然修道女にはなつかず、修道院長だけになつき、彼女が通るたびに鳴き声を上げると語る。

・斉木は昨夜、修道院長との会話がよみがえる

・「聖人とは何でしょうか。」

「聖人とは、リザヴェータ様のような人です」

・「明日、戻られましたら、またお話を伺ってもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろん。今日でも、明日でも」

・石壁の上にはスコーニャが立っていた。斉木は彼女に告げる「なぜあなたは、修道院長を殺したのですか」と。

 

斉木の謎解き

 

・斉木は早課の前に修道院長はスコーニャに殺されたという。修道院長は祈りの間から入る際と出る際、必ず猫がそれぞれ一回ずつ鳴く。しかし、今日猫が鳴いたのは一回だけ。つまり、修道院長は祈りの間から出ていないことになる。早課以降に猫が鳴いた様子はないので、その一回は早課より前。

・修道院では、一日の始まりは日の入りであり、日の入りから次の日の入りまでが一日であると考える。昨日、祈りの間で修道院長は『明日』村に行くと言ったが、その夜には『今日』出かけるという。時制が滅茶苦茶に思えるが、この考えの下では自然である。

・『今日』は斉木にとっては『昨日』の午後七時。つまり、修道院長は祈りの間で祈った後、すぐに村へ向かうつもりであった。猫は今日一度しか鳴かなかった。つまり、鳴いたのは修道院長が祈りの間に入ったとき。修道院長は祈りの間から出ていないことになる。

・しかし、ウラディーミルが祈りの間に入った時、修道院長はいなかった。人が隠れることができるのはただ一か所のみ。つまりは、棺の中である。棺の中にはリザヴェータの遺体ではなく、修道院長の遺体が入っていたのだ。そして、院長から修道院を出るところを見たと嘘をいったスコーニャが犯人である。

 

叙述トリック

 

・またもや叙述トリックである。第一話、第二話と叙述トリックが続いたのでこれは読者の頭の体操代わりだったのかもしれない。なるほどこういう形のトリックが使われる短編集なのだなと頭をほぐしたところでの第三話。

・実は、初めに、棺の中に入っていたのはリザヴェータではなく、スコーニャだった。斉木は、祈りの間に食事を差し入れることを知る修道女は修道院長だけであるはずだったことから、スコーニャがあの時、祈りの間にいたことを推理。

・P133 L.19の「審問官が私のほうへ視線を向けた気がして、慌てて目を閉じた。私は祈りの途中だ。」という表現は見事である。

・ウラディーミルが三日間祈りの間に籠りたいといった時、それはスコーニャも三日間棺に籠らなければならないことを意味していた。P137の「私の中を、不安が獣のように駆け回る」というのは、このことも示していたのだろう。しかし、そのようなことは不可能に近い。そのため、新しく腐らない死体を用意する必要があった。腐らない死体は聖人の死体。そのため、スコーニャは生ける聖人と呼ばれる修道院長を殺害した。

・結局は、遺体の存在しないリザヴェータを列聖させるために行われただと斉木は指摘する。

 

意外な真実

引用基:『火刑法廷』ジョン・ディクソン・カー

リドルストーリー

 

・スコーニャはなぜリザヴェータの遺体がなかったのかを斉木に問うが、斉木は答えられない。

・つんざくような遠い悲鳴が上がり、祈りの間から音が聞こえた。そして、スコーニャは斉木にリザヴェータは復活したため遺体が消えたのだと明かす。

 

「叫び」

 

「祈り」


だいじなのは、お話の裏に込められた意味なんだよ、ドローヴ少年。
 ――マイクル・コーニイ/山岸誠訳『ハローサマー、グッドバイ』(河出文庫)

 

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