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わたしと梓崎優

嘘つき鼠

 

 ――これで、終わりか。

 そうつぶやいたタヒルが、不意に僕を見た。

 ――妹に会いたいな。

 言葉を失う僕に、タヒルは寂しそうな目で訴えた。

 ――死ぬ前にもう一度、可愛い妹に会いたいな。

 

Impression

 

・内容はハードボイルド感があり大藪晴彦賞受賞記念にふさわしいものです。異国の地を利用した点では『叫びと祈り』を、温厚な主人公と力強い兄という組み合わせは『リバーサイド・チルドレン』を、最後の「私たちはせめて赤いものを身につけて」という一節は「スプリング・ハズ・カム」や「美しい雪の物語」の感動を想起させ、梓崎優のエッセンスが詰まった作品だと思います。

・特に異国の地という舞台の使い方はすごいです。国の地形、文化、歴史、犯罪、思想。その全てを利用しているのは流石としか言いようがありません。特に、クロアチアの「赤いものが愛の印」だという文化を利用した美しい兄弟愛が導かれるラストは鳥肌ものです。

・道尾秀介の『透明カメレオン』にこんな一説がありました。「誰かを守る嘘ならいい。誰かを救う嘘ならいい」やっぱり、嘘でも本気でつけばそれを人が信じる。その時に、いったどういうために嘘をつくのか? やばいことをしてごまかすための嘘じゃなくて、人を守るためにつく嘘なら良いんだ。その感じがこの「嘘つき鼠」という作品の中に強く表れているなと感じました。

・僕は物語に登場するネウムという町いったことがあるのですが、本当にクロアチアと間違えてしまうほどクロアチアらしいです。町にはクロアチアの旗がたくさん立っており、住民もクロアチア人ばかり。ほんの15km程度(目算&体感による推定)の海岸のみがボスニアで、その両側はクロアチアの海岸です。二か国の出国・入国手続きは本当に簡単なものです。

・ちなみに、ネウムは観光客があまり来る場所ではなく、クロアチアより圧倒的に物価が安いのでものが安く手に入り、土産品を買うにはうってつけです。そのため、運が良ければ「日本人の爆買い」という珍しい光景が見られます(ネウムはスプリットからドヴロブニクへ行く途中にとおりことがあるので日本人も時折訪れるのです)。ボスニアの通貨でもクロアチアの通貨でもどちらも使えます。

 

ネウムについてはこちらのサイトに詳しく記されています。(但しセルビア語です)

http://www.neum.ba/

 

ウスタシャについて知りたい方はこちらの書籍をどうぞ

Croatia Under Ante Pavelić: America, the Ustase and Croatian Genocide

 

 

Consideration

 

・果たして、タヒルはアダンが嘘をついていることに,サラがBiHに住んでいことに気が付かなかったのだろうか? アダンは国境を検問だと偽ったが、あれほど大掛かりな建物で検問(しかも近距離で二度も)を行うということにタヒルは疑問を抱かなかっただろうか? タヒルは文字の読み書きはできないが、頭は決して鈍くはない、それどころか作中では所々で感がさえ重要なことに気が付いたりもする。国旗の件もあれほどまでにBiHを憎んでいたアダンがBiHの国旗を知らないと考えるのも不自然な感じがする。ましてや、EUに加盟しているクロアチアにいてEUの旗を見たことないはずがない。実際には、タヒルはサラがBiHに住んでいることも、アダンが嘘をつく理由もわかっていたのではないか。そして、それに気が付いてなお、黙っていたのではないか。アダンの優しさを無にしないため、サラの幸せな生活を守るため。すべては兄弟の幸せのために。もしそうだとすれば、この物語はより美しい物語として再認識できる。

 

Story

 

サラからの手紙

 

・物語はサラの兄・アダンへの手紙から始まる。

・手紙の中でサラが孤児院で出会った男性と一緒に暮らしていること。クロアチアではお互いに、愛のしるしである赤いものを身に着けて互いの気持ちを確認しあっていたこと。一年前、クロアチアでの生活を捨て、ネウムに逃れたこと。そして、二人の兄たちの前から黙って姿を消したことへの謝罪と今では幸せに暮らしていることが書かれていた。

 

海のない国

 

・サラの兄・アダンは車に乗ってクロアチアの街道を走りながら、アニメを思い出していた。

・鼠は猫に追われ、安全な住処を目指しながら逃げていた。分かれ道まで来た鼠は「鼠の家はこちら」と記された標識の向きを変え、猫は標識の示すほうへと走り泥沼に落ちてしまう。鼠は猫を後目に大笑いしながら住処に帰っていく。

・サラのもう一人の兄・タヒルはアダンにアドリア海の向こう側に見える島を見てイタリアが見えると話しかける。しかし、アダンはそれがクロアチアのフヴァル島であり、クロアチアからイタリアは見えないことを知っていた。

・クロアチアの海を眺めつつタヒルはクロアチアを褒め「海のない国なんか、消えてしまえばいい」と吐き捨てる。海をない国とは、タヒルたちの故郷であるボスニア・ヘルツェゴビナ(BiH)である。

・タヒル達と同じ孤児院にいた子供らは皆BiHには海がないと思い込んでいたが、実際には一か所だけ海と接している場所があることをアダンは知っていた。そのことをアダンに教えたのは妹のサラだった。

・BiHが唯一海と接する街・ネウムにサラは暮らしている。二年前に孤児院に出入りしていた塗装工と二人で姿を消し、アダンはその行方を昨年の手紙で知った。サラは手紙の中でアダンに手紙のことを教えないでほしいと頼まれていたが、妹の姿を一目見たいとアダンに頼まれたタヒルは断ることができなかった。

 

三人の過去

 

・アダンとタヒル、サラの三人は十年前までBiHの片田舎で暮らしていた。両親はクロアチア人で、家族は幸せに暮らしていたが、その暮らしはある一日で消え去ることとなった。

・両親は子供らを急に連れ車で逃げようとするが、アダン達は戦車の砲弾を受け、巨大な火の塊が車を押しつぶした。両親が死に、諦めかけたが、タヒルがアダンとサラを先導し、何とか三人は生き延びた。

・クロアチア人の両親はセルビア人が武装しているという情報を入手し、避難を試みたのだが、結果としては三人の子供だけが運よく国境を超え、クロアチアで難民生活を送ることとなった。アダンは両親がいなくなった原因がセルビア人であることを知り、セルビア人への憎しみと恐怖を募らせながらタヒルの背中に隠れて生きていく。

 

セルビア人とクロアチア人

 

・タヒルとともに車でネウムに向かう途中、アダンは男が手車に向かって手を振っていることに気が付くが、無視して通り過ぎる。タヒルはアダンを冷たいと非難するが、アダンは男のカバンに書かれた文字がキリル文字であり、男はセルビア人だったというと、タヒルは納得する。

・タヒルはアダンにセルビア人が憎いかと問うが、《U》よりは憎くないと答え、暴力に訴えるのは野蛮で、力任せの猫より、賢い鼠のほうが性に合っていると言う。

・アダンはタヒルにセルビア人が憎いかと聞くと、さっきの男を車に乗せていたら半殺しにしていたと答える。案外アダンには見分けがつかないかもしれないと言うと「住んでる場所を訊くのさ。クロアチアに住んでいればクロアチア人、BiHに住んでいたら、そいつはセルビア人だ」と答える。断定するタヒルに、アダンは胸が痛くなった。

・BiHに住み人がクロアチアと逃げたのとは逆に、クロアチアに住むセルビア人の多くはBiHやセルビアへと移った。しかし、セルビア人はBiHに住む人の4割に過ぎないことをアダンは知っていた。しかし、アダンらからすべてを奪ったセルビア人がBiHに住んでいるというだけでタヒルには十分だった。BiHにいるだけで憎しみの対象になるのだとしたら、アダンはタヒルがサラに対して何を思い、どんな行動に出るのか気がかりとなった。

 

《U》

 

・難民生活が始まると、アダン達は孤児院へと入れられ、そこでは食べ物が不足していた。そのため二人は盗みを覚えた。盗みを続けるうちに仲間ができ、気づけばアダン達は犯罪集団に属しており、それを束ねていたのが孤児院の院長だった。ただ、院長もまた誰かの指示を受けているらしく、組織の全体像はまるでつかめず、仲間は組織を《U》と呼んでいた。

・盗みが下手で腕力もなかったアダンには運び屋の仕事を宛がわれ、免許はなかったが危険はなかった。腕っぷしの強いタヒルは借金の取り立てを請け負い、楽な仕事だとうそぶくタヒルの体には、いつも生傷が絶えなかった

・妹のサラは《U》に属さず、孤児院で子供の世話をしていた。サラは《U》を毛嫌いし、ある日兄たちの前から姿を消した。

・今朝、アダンとタヒルは院長に呼び出され、仕事を頼まれる。院長室にいた男がBiHのパスポートを2冊渡した。アダンは何を運ぶのかと問うと、男は武器をBiHのウスタシャに運ぶよう言う。ウスタシャについてアダンが問うと、それが《U》の名前だと聞かされる。

・アダンはサラに教わった知識がよみがえる。第二次世界大戦中にナチスの支配下にあったクロアチアで活動していた、クロアチア人による極右組織。抵抗組織と謳いながらその実態はセルビア人武装組織チェトニク、ボシュニャク人武装組織パルチザンとの勢力争いを繰り広げた、ナチスより悪名高き組織。それが《U》の正体であった。

・アダンはサラが《U》に対して抱いていた嫌悪感を理解する。昔のことを忘れたかったサラにとってセルビア人への憎しみへまみれた《U》は苦しみでしかなかった。

・男はアダンに護身用の拳銃を差し出すと、タヒルが拳銃をかすめ取り男に尋ねた「BiHの連中に武器をやるのか」男が肯定すると、即座にタヒルは男と院長を射殺した。

・「許せないじゃないか」そう言ってアダンはタヒルとともに男の車に乗った。十年間暮らした建物に注がれるタヒルのまなざしは、寂しさに満ちていた。「妹に会いたいな」タヒルは寂しそうな目で訴える「死ぬ前にもう一度、可愛い妹に会いたいな」

 

嘘つき鼠(以下ネタバレあり)

 

・道の先には有料道路の料金所らしきものがあった。タヒルがアダンにあれは何かと尋ねると、検問だとタヒルは答える。我々が《U》のメンバーを殺したため、警察が捜査に出ているのだと言う。タヒルはアダンに隠れるよう懇願し、自身はパスポートを建物にいる男に渡し、BiHの国旗を通り過ぎ、入国審査を終えた。

・アダン達はネウムへと到着する。車でネウムを走っていると、建物に黄色い三角形と青地に白い星の図柄の描かれた旗がはためいていた。タヒルがあれは何かとアダンに尋ねると、アダンはEUの旗だという。

・ミニマーケットらしき店の入り口で一組の男女が談笑していた。女のほうは、黒い髪に赤い髪ぐしが光っているのにアダンは気が付く。タヒルはドアを開けようとするが、アダンは止める「妹の幸せを、兄が奪っちゃ駄目だ」

・アダンはサラの相手はどんな人かを気に掛けるが「本当は一発殴りたいんだが、今日は見逃してやるか」とその場を退く。そうして一言だけ言った「ドゥブロヴニクに住んでいるのは、クロアチア人だ。それで、十分だ

・突然車の窓がたたかれた。アダンが振り向くと若い男が立っており、慌てて窓を開ける。次の瞬間、男はアダンとタヒルを撃ち「Za dom」と言い残し、去っていく。

・猫は鼠の嘘に騙されて道を誤る。しかし、泥沼に落ちる前の猫は、鼠の住処が目の前だと信じて幸せな気分だったはずだとアダンは想像する。《U》の人間を殺した時から、宇h多利は始末されることはわかっていた。そして、せめて幸せな気分で死にたいとも思っていた。サラがBiHに住んでいると知ればタヒルはどう思うだろうか。いくらネウムがクロアチア人の町でサラの相手もクロアチア人だとしてもアダンにとってはBiHに住む人間は憎しみの対象でしかない。そのため、アダンは「サラの家はこちら」と書かれた標識の向きを変えた。サラはBiHのネウムではなく、クロアチアの街に住んでいることにした。国境を検問と偽りBiHの国旗をEUの旗だと偽る。タヒルとサラ。二人の幸せを守るために。

・アダンはサラの手紙に書かれた赤いものは愛の印だという言葉がよみがえる。二人の胸元はすでに真っ赤になっていた。

 

~Fin~

 

 

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